なんとも70年代のジウジアーロ的なスポーツカーといった感じですね!カッコいい!
バレルンガのシャシーを拡大し、ミドシップにフォードV8エンジンを搭載した強力なモデルがマングスタ。しかし何より衝撃的だったのが前衛的スタイリング。デザインはギア時代のジウジアーロが担当し、時代を先取りした革新的スタイルは、デビューした66年トリノショーでは大いに話題を集めた。ミドシップに強力なエンジンを搭載したが、レース向きというよりも、高速GTカーとしての要素が強い。アメリカの大型エンジンを使ったイタリアンGTの代表的なモデル。71年までにおよそ400台が造られた。マングスタの名は、ACコブラを意識したもの。
デ・トマソっぽい雰囲気のマシンなら他にもあるんですけどねえええええ!!
マングスタ(Mangusta )はイタリアの自動車メーカー・デ・トマソが1967年から1971年まで生産したミッドシップ2座席スポーツカーである。「マングスタ」はイタリア語で動物「マングース」を意味する。 概要 1966年のジュネーブ・モーター・ショーにおいて、ヴァレルンガに代わる本格的な市販モデルとして登場した。ヴァレルンガ同様にフォード製エンジンを用いながらも、今回はパワフルなアメリカ製V8を用いたことによってスーパーカーと見なされるものとなり、北米のフォード系販売網で販売された。「マングスタ」とはコブラの天敵であるマングースを意味するイタリア語であるが、この命名の背景には同じくフォードV8エンジンを用いてスポーツカー・ACコブラを製作していたキャロル・シェルビーとアレハンドロ・デ・トマソの間で、マングスタの開発かフォードからのエンジン供給を巡って何らかのトラブルがあったためと言われている[1]。 マングスタのもうひとつの特徴は、カロッツェリア・ギアに移籍直後のチーフスタイリスト、ジョルジェット・ジウジアーロが手がけたボディで[2]、ガルウイング式に開くリアセクションを特徴とした野性味に溢れた豪快かつ繊細なデザインで、ジウジアーロの傑作の一つに数えられている。 エンジンは標準が305馬力のチャレンジャー289V8であったが、米国向けは公害対策による性能低下を補うためチャレンジャー302V8が搭載され306馬力を発した。ギアボックスはZF製5速で、最高速度は250km/hと公表された。 マングスタはアメリカ製V8エンジンを搭載しており、自製のV12やV8を搭載するライバルのランボルギーニ・ミウラ、フェラーリ・365GTB/4、マセラティ・ギブリなどと比較すると価格は割安で、エンジンの調整も比較的容易であったが、重いエンジンによって前後重量配分は32:68と極端にテールヘビーで、直進性や操縦安定性には問題が残っていた。また、最低地上高もスーパーカーの中でも低く、街乗りには細心の神経を遣う必要があった。 アメリカへの輸出に際し、初期の車はシートベルトがなく、ヘッドライトが連邦規制よりはるかに低い位置にあったが、少量生産であるため免除制度が適用された。この免除の期限が切れた後、ヘッドライトは固定式の丸形4灯から2灯のポップアップ式に改められた[3][4]。この構成では、推定50台が生産されている。ゼネラルモーターズの副社長であるビル・ミッチェルのための1台は、シボレーエンジンを用いて造られた[5]。 生産コストが遥かに低い対米輸出の戦略車種、パンテーラが1970年に登場したことを受けて、マングスタの生産は1971年に打ち切られた。合計401台が製造され、約150台がヨーロッパ向け、残りが北米向けであった。現存台数は200台以下と言われるが、ヒストリックカーとして珍重されている。 日本にも1970年代半ばのスーパーカーブーム当時、シーサイドモーターなどの専門輸入業者によって何台かが輸入された。 開発史 マングスタは、デ・トマソ・P70のシャシーを改良して用いている シャシーのベースはヴァレルンガ[6]である。これを基にした「デ・トマソP70」のシャシーをさらに改良し、マングスタに用いている。 1964年の終わり、キャロル・シェルビーはCan-Amレースにおいてシェルビー・コブラの競争力を維持するべく、新しいレースカーの製作を考えた[7]。シェルビーはアレハンドロ・デ・トマソにコンタクトし、両者は合意。ピーター(ピート)・ブロックのデザインを基に、デ・トマソ側で開発がされたが、シェルビーはデ・トマソ側の当初の仕上がりに満足せず[1][7]、設計作業を行わせるためブロック率いるチームをイタリアに送り込んだ。このことでデ・トマソとシェルビーは対立[8]。またチャレンジャー289V8 (4.7 L) を拡大した6.8 Lエンジンを製作することで合意していたが開発は進まなかった[9]。最終的にシェルビーはフォード・GT40の開発に移り、プロジェクトは終了した[1]。 デ・トマソはカロッツェリア・ギアにP70のプロジェクト名で開発されていた車の設計を完成させるよう依頼した[9]。完成した1台の車は、1965年のトリノモーターショーで、「Ghia De Tomaso Sport 5000」として発表された。その後、デトマソはP70のスチールバックボーンシャシーを変更し、ギアのジョルジェット・ジウジアーロによって設計されたマングスタのベースとなった。マングスタは1967年に生産を開始し、同時にデ・トマソはギア社を買収した[10][11]。 復活 詳細は「クヴェール・マングスタ(英語版)」を参照 マングスタの名前は、2000年代初頭に「Qvale Mangusta」として復活した。当初この車はコンセプトカー「De Tomaso Biguà」として登場、後にかつてと同じ「De Tomaso Mangusta」と改称したが、デ・トマソとビジネスパートナーQvaleの間で商標を巡り争われた結果、Qvaleの名で市販されたものである。限られた数のみ販売された。
価格は販売当時のメーカー希望小売価格で参考価格です。消費税率は価格情報登録または更新時点の税率です。
こんにちは!コメントありがとうございます。ジウジアーロ、ジュジャーロとも言うそうですね!
販売期間中に消費税率が変更された車種で、消費税率変更前の価格が表示される場合があります。
2004年4月以降の発売車種につきましては、車両本体価格と消費税相当額(地方消費税額を含む)を含んだ総額表示(内税)となります。
デ・トマソ マングスタが登場するとはかなりマニアックですねぇ。
2004年3月以前に発売されたモデルの価格は、消費税込価格と消費税抜価格が混在しています。
アルゼンチンからイタリアに渡り、レーシングドライバーを経て1959年に自らの名を冠したコンストラクターを設立したアレッサンドロ・。彼が1966年のトリノショーで発表したモデルがマングスタである。マングスタとはイタリア語でコブラの天敵とされるマングースを意味し、スポーツカー開発を巡って因縁のあったキャロル・シェルビーのコブラを意識した名称といわれている。
【ゆっくり解説】打倒コブラ!因縁から生まれたデ・デトマソ マング
デ・トマソのロードカー第1作であるヴァレルンガのそれを大型化した箱型断面の鋼板製バックボーンフレームに載る、極めてモダンでスタイリッシュなボディーは、当時カロッツェリア・ギアのチーフスタイリストだったジウジアーロの手になるもの。ガルウイング式のリアカウルを開くと、1基の4バレルキャブレターを備えた米国フォード製の90度V型8気筒OHVエンジンが現れる。欧州仕様車は4.7リッターから最高出力305PS、北米仕様車は5リッターから230PSを発生するといわれ、ZF製の5段MTを介しての最高速度は北米仕様車で250km/hとうたわれた。
V8エンジンをミドシップした市販スポーツカー、マングスタ。アメリカンV8ユニットゆえにフェラーリやマセラティ、ランボルギーニといった純イタリアンスーパーカーよりは扱いやすく、アメリカで1万3000ドルという価格もそれらよりは安かったが、およそ400台がラインオフしたところで1971年に生産終了。アメリカでの大量販売を目指して大幅なコストダウンを果たした後継モデルのパンテーラにバトンを渡した。
デ・トマソ マングスタ 69 | グラソツーリスモシリーズ総まとめwiki
【このクルマの良い点】
デトマソマングスタ、ノスタルジックパシフィコ横浜でパンテーラとマングスタマスクにしての超かっこよさは傑作。丸目4灯の目付きに迫力満点のオーバーフェンダーに車高の低さは別格。
【総合評価】
マングスタのマング...
GAZOOのカタログデ・トマゾ マングスタ 1966年1月~ ..
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スーパーカー列伝91デトマソ・マングスタ | 天野啓太郎公式サイト
どうしたら、クルマはかっこよく見えるか。1967年に発売されたイタリアの「デトマゾ・マングスタ(※)」は、クルマのかっこよさの教科書のようなスポーツカーだ。ボディースタイルはジョルジェット・ジュジャーロ(※)が手がけた。
イタリア戦闘ヘリのマングスタもAH-1コブラを倒すために開発されたらしい ..
マングスタは、以前この連載でとりあげた「バッレルンガ」(64年)の発展型ともいえるモデル。60年代から70年代中盤にかけて、イタリアのスポーツカーのデザインは百花繚乱(りょうらん)。メーカーが独自の審美観でもって個性を競っていた黄金時代だ。
SMP24 1/24 デ・トマソ・マングスタ | クアトロポルテ 通販
僕はホットウィールを集め始めるまで「デ・トマソ」なるメーカーを知りませんでした。
その後に知ったのも「パンテーラ」で、マングスタなるマシンは本当につい最近まで知らなかったのですが・・・パンテーラの先代車種にあたるのがマングスタなんですな。
デ・トマソ マングスタ / DE TOMASO MANGUSTA
シェルビーコブラの対抗車種として作られたので、コブラの天敵であるマングースから名前を取られています。
※キャロル・シェルビーとアレハンドロ・デ・トマソの確執で・・・という話もありますが、この辺の逸話は追うだけで楽しいでんな!
他 デ・トマソ(デ・トマソ)の口コミ・評価:マングスタ(不明)
(※日本では「デトマソ」「ジウジアーロ」と書かれることが多いが、本連載では「デトマゾ」「ジュジャーロ」と記載する)
げっ・・・・・・今日だったの?一時退避朝からごくろうさまですアパッチコブラカモフティーガーマングスタ.
ジュジャーロが在籍していたカロッツェリア・ギアによるマングスタは、オーソドクスさとアバンギャルドの中間ぐらいといえばいいか。大きなV8エンジンを搭載しているのに、全高は1.1メートルとかなり低い。15インチ径のタイヤの存在感も大きく、理屈でなく、クルマ好きのハートをつかむスタイルだ。
HWCにてRLC限定の1971 DE TOMASO MANGUSTA発売情報!
同時に、細部まで凝りまくっているのも、創作意欲がみなぎっていた当時のジュジャーロならではだろう。低い位置に配された4灯式ヘッドランプによるアグレッシブさとともに、リアのエンジンルームは中央にちょうつがいを設けてあった。フードは左右から蝶(ちょう)の翅(はね)のように開くのである。斬新で衝撃的だった。
【3分兵器解説】イタリア陸軍攻撃ヘリコプター A129 マングスタ ~荒く攻撃的、世界有数のコブラファイター~
デトマゾを率いていた元レーシングドライバーのアルゼンチン人、アレハンドロ・デトマゾは、当時、米国のフォードとビジネス上で密接な関係を持っていた。マングスタも、米国市場向けのスポーツカーとして企画がスタートしたといわれる。
【最新価格相場】デ・トマソ マングスタ(De Tomaso Mangusta)
当初のパートナーは、やはりレーシングドライバー出身のキャロル・シェルビー。当初はマングスタ(へと発展するモデル)をレースに出走させ、そこからマーケティングを始めようということで、両者の間で話がついていた。なのに、デトマゾが納車の締め切りを守らず、計画は不首尾に終わってしまった。
DE TOMASO MANGUSTA で、マングースvs毒蛇!?
デトマゾは、シボレー・コーベットと同等かそれ以上の性能を持つスポーツカーを欲しがっていたフォードから多額の資金を引き出すという胸算用があった。シェルビーは、やはりフォードエンジンのACコブラ(62年~)を手がけていて、フォードにとっても、計画どおりに進めば高性能スポーツカーを一気に2モデル、ラインアップに持つことも夢ではなかった。
【買取】1/18 デ・トマソ・マングスタ 1971(メタリック ..
マングスタは欧州と米国で販売された。欧州向けには306馬力の4.7リッターエンジン、米国向けには230馬力の5リッターエンジンを搭載。71年までの間に約400台が作られたのだから、まずまずの成果といえるだろう。
ホットウィール・コレクターズ RLC限定 1971 デ・トマソ ..
背面にはカリフォルニアのライセンスプレートで「GOOSE」って書いてますね・・・。
gooseだと「ガチョウ」ってことになりそうですが(w)これはきっとマングースってことだよな・・・??
マングスタ Hot Wheels Collectors RLC Limited 1971 De Tomaso Mangusta
はたして、マングスタは、目論見(もくろみ)どおりにフォードとがっちり手を組んで、というふうには進まなかった。71年には後継モデルの「パンテーラ」を手がけ、販売面でも成功を収め、フォードはデトマゾの株式を取得して、親会社に。しかしそのすぐ後、73年に第一次石油ショックがあるなどして、フォードは大排気量スポーツカーへの興味を失っていくのだ。
デ・トマソ・マングスタ 1971 メタリックボルケーノレッド (ミニカー)
フェラーリもランボルギーニもマセラティも、自社製高性能エンジン搭載で、この分野でもマングスタに勝算はなかった。マングスタの当時のライバルは、(ちょっとマニアックだが)イタリアンエキゾチックスポーツカー、イソ・グリフォ(65年)だろうか。同じくジュジャーロが手がけたボディーに、シボレー製V8エンジン搭載と、少し成り立ちが似ている。