【BSアニメ夜話 ルパン三世】 岡田斗司夫 横山智佐 ミルクマン斉藤 友 ..
その後、逆に「動きのある絵」の例としてやはりを挙げ、池上氏の絵と比較して考察している。
すくなくとも「漫画の中の動き」には、このようにかなり意識的に考察をしているいしかわ氏が、安彦漫画の動き、を低く評価したのは、やの動きの特性ゆえだったのか、それ以外の何かだったのか…。
そのへんはもっと詳しく聞きたいところだし、現在の「天の血脈」なども論じてほしいところだ。
あれは主人公(現代編)は、アクションで動かしがたいけど。
主な出演者 大月隆寛 いしかわじゅん 岡田斗司夫 夏目房之介 笹峯あい 斎藤光
漫画のうまい漫画家と、絵のうまい漫画家はとは、別のものだ。
ちょっと、わかりにくいかもしれない。
という漫画家がいる。とてつもなく絵のうまい漫画家だ。デビューの頃から、その絵には定評があったが、ここ十年ぐらいで、それは完璧に完成してしまった。(略)
池上の技法をベースに、アジアの漫画の一部は成立したといっても過言ではあるまい。
漫画の最大の特徴のひとつとして、止まった絵で動きを見せられるということがある。一枚の絵の中で、あるいは何枚かを組み合わせたコマ割りの妙で、止まった絵を、まるで動いているかのように見せることができる…その技術が、動きのテクニックが、池上はあまり優れていないと思うのだ。どうもあまり楽しくない例にあげてしまって、池上には申し訳ないが…
(略)
なのだ。
しかしこの論争が、2005年とネットも爛熟しはじめていたころなのに、大きな話題にならなかったのは残念だ。もちろん、「何言ってやがるんでぇ、この丸太ん棒め!」というこの啖呵が大きな騒動に発展していくか、時代と場所がちょっとだけずれていれば、安彦氏の言った
このふたつが、ああ…みたかったなあ…。
とくに「や武道は『動きの中動作』が見えにくい。だからそこはあえて略したが、どうしてもというなら描いてみせよう」というのはね…この前、グや柔道など、スポーツは「録画」という技術が大きく変えた、という話をしたじゃないですか。ここね↓
BSマンガ夜話 第18弾(2001年05月28日~31日放送分 ..
BSマンガ夜話で、なんと『男組』が扱われていた。マンガ夜話は不定期に放送され、扱う作品も年代やジャンルに偏ることなくピックアップされているのだが、『男組』は最も扱われにくい作品ではないかと、勝手に思い込んでいた。『男組』は『美味しんぼ』の雁屋哲が原作、池上遼一が作画を担当しているのだが、番組中では大半を池上の絵について語ることとなり、後はストーリーや設定について適度に揚げ足を取りながら面白おかしくやっていた。
少々、引用部の感想を。
いやあ、このあとがきのために、版も持っているのに購入してしまった。ただ、漫画界の著名な実作者・批評家がケンカしてるのが面白いってだけじゃなくて、格闘技、武道の動きの理論や、さらには自分のアニメーターの『腕に覚えアリ』っていう自負に裏打ちされた啖呵が痛快だからこそ、この文章に惹かれたのであった。
つまりは、江戸の”職人衆”の啖呵のようなところがあるんだよ。腹を立てての抗議文なのに、自然とそんな芸論、技術論になっていく、そこの面白さっていうとわかってくれるだろうか。
゚Д゚) < Cobra (コブラの数式 / 2022年タミル語版) | インド映画噺
このあとの話もまた面白く、また本来の「王道の狗」解説に戻って(笑)、日本はどこで道を誤ったのか?対華二十一カ条要求か?か?といったテーマについて語っていて、本当はそっちを論じたほうがたぶん有益なのだが(笑)、それは次の機会に。
『男組』は少年サンデーに連載されていて、ワタシはかろうじて末期だけリアルタイムで読むことができた。その後単行本全25巻を立ち読みして全貌を知るのだが、その内容はおよそ当時のサンデーに連載されていたのが信じられない(『うる星やつら』も連載中だった)、クソ真面目なマンガだった。まず目を惹くのがやはり池上のペンによる劇画タッチの絵で、ワタシが勝手に思う日本で最も上手いマンガの絵である。
コブラ 寺沢武一: 寺沢武一: 110円~: 手塚治虫のアシスタント
「リアル」と「記号」にふれたいしかわ氏の僕に対する批判に、しつこいようだがもう少し言及する。
例えば氏は「リアルに欠け、記号でしかなく、動きの描けない」作者安彦の欠点を示す箇所として、一シーンを挙げる。建国大学での開祖が、主人公の学生を投げるシーンだ。といい「動きが描けない事の証明」といい、従って大友以前の旧世代作家の描き方は「でしかない」というのだ。
いしかわ氏の指摘は、残念ながら論理の飛躍ですら「ない」。
例えばそれはいいかわ氏の好きなプロレス用語で言えば猪木のの対極にあると言っていい。腕や脚のからみをいい加減に描いてはは成立しないだろうが、やの技は、どうやらそれらには拘らないらしいのである。
とはいえ、氏は御存知ないかもしれないが、僕の前職はアニメーターである。職の病というものは恐ろしいもので、他人には些細に見えるらしい漫画画面での動きの継続性が、僕はいつも気になって仕方がない。それは漫画家としての長所ではなく、むしろ野暮な短所ではないかと疑っているくらいだったから、公共の電波で(この言い方は嫌いだが今はあえてする)「(は)動きが描けないのだろうナ」と言ってのけられた時に、僕は他のどんな難クセに対してよりも強く怒りを覚えた。大人げないのだが、気になった(どうですかいしかわさん、見たいですか?見せてあげましょうか?)
は、よく言われているように現代の漫画表現の偉大な先達者になった。それは、従来の記号領域を彼が飛躍的に拡大したからだ…それに惹かれた描き手が次々とその後に続いた。
が、時代を画する存在であるのは間違いない。が、彼がとしてやってみせたのも記号の拡大であって、それ以上でも以下でもない。彼は確かに「リアル」を描き加えた。死体やメカや、醜いの東洋人というような、それまでは敬遠して誰も進んで描こうとしなかったような対象をも、彼はこうすれば描けるではないかと実技を以って示した。だが繰り返すがそれは、記号の”廃止”ではなかったのだ。
だからこそ大友のあとにも、擬似大友の描き手がぞろぞろと続いた。
(略)
しかし「評論家」いしかわ氏もそう称するなら知らぬはずはあるまい。当のも、「自分は手塚の子だ」と公言しているのだ…大友をさらに先鋭化させ、さらにリアルに向かって突き進めたといってもいいですら、「師は手塚だ」と言い切っている。(略)自分たちが、手塚の確立した記号的方法による漫画史の外にいる描き手だとされてしまったら、戸惑うのは誰よりも大友や寺田本人であるだろう。
こんなイケメンが顔捨てる羽目になるんだからやっぱギルドはクソやわ ..
いろんな方のレビュー拝見してて、偶然知りまして。
昔、マンガ夜話か何かでちらっと名が出たので、ジョージ秋山の古い漫画という事と導入部だけを知っておりました。
ただ、私世代でもジョージ秋山って人は浮浪雲の世代ですのでこの作品知ってるのは年上な方かマンガがホントに好きな方だけでしょう。
アニメ化されてたなんて露とも知らず見過ごしておりましたが、この度拝見しました。
有難う御座いました としか言いようがないです。
見た後のこの何とも言えない感覚。
私はしょっぱなから涙腺ウルウルで御座いました。
生きる為に食う事を是とするのか、人としての尊厳を守って果てるのか。
この物語の人々は快楽ではなく、究極の選択の上での事。
旅の僧も言います。誰も食べたくて食べる訳ではないと。
モラルの間で悶え苦しむのは心を持った人だからこそ。
80分弱に描かれる、獣のごとく人を食らう事で生き残って来たアシュラが"人"になってゆく過程での苦悩とラストの姿。
この作品見た後でも私は正直迷いますね。
けなすようで申し訳無いけど、グリザイアの果実のレビューでも書きましたが本来あんなに浅く描いてはいけないテーマです。あの3話を見る時間と同じ分数でこの素晴らしい作品が見れますので、ほんと見た方がいいです。
非常に重いテーマ故に軽い気持ちで見てはいけない代物ですが、出来ればお勧めしたい作品ですね。
Share your videos with friends, family, and the world.
明治時代を舞台にした伝記ロマン「王道の狗」は連載誌の版元である版のあと、から発行された版があり、そちらは後半部に100枚以上の増補が付け加えられたほか、4巻巻末に作者のあとがき(エッセイ)がついている。
その、4巻収録のあとがきが、ちょっと剣呑でして。
なにが剣呑かというと、「」での自作()が取り上げられた際、コメンテーターの評にかちんときたと(笑)。ああ、なつかしいなあ、こういうトラブル(笑)。
が「自分で描いてない」という論評に「いや、ちゃんと描いてるよ!」と反論した時は番組の一部を借りて映像を流したっけ。
あとはが「作者もけっこう傷つくのにさ…」とサンデー公式ブログで描き、盟友が成り代わって反論するというサンデーというよりジャンプ的なアツい展開があったっけ。
※このブログのどっかに保存…ここだここだ
BSマンガ夜話 第24弾 第04夜「 子連れ狼」小池一夫原作・小島剛夕画
スマッシュヒット・ホラー映画「デモンテの館(Demonte Colony)」で注目を集めたR・アジェイ・グナナムトゥの3本目の監督作となる、タミル語(南インド タミル・ナードゥ州の公用語。スリランカとシンガポールの公用語の1つでもある)サスペンス・マサーラー・アクション映画。
インドより1日早くドイツで、インドと同日公開でアラブ、オーストラリア、フランス、英国、ノルウェー、ロシア、シンガポールでも一般公開されたよう。
日本では、2023年の渋谷インド映画祭にて英語字幕版で上陸。
グナナムトゥ監督第1作「デモンテの館」が都市伝説をもとにした新機軸密室ホラー、第2作「まばたかない瞳(Imaikkaa Nodigal)」が謎の連続殺人犯を追う者たちを襲うスピーディーなサスペンススリラーとして大きな話題となった後を受けて、本作はグナナムトゥ監督作では初となる本格マサーラー映画的な全部載せ映画をぶちかましてくれている1本。
変幻自在な怪演で評判のヴィクラムを主演に迎え、寡黙な数学教師、変装の達人の正体不明な暗殺者コブラ、幻の相手と対話し現実と虚構の区別をなくした哀れな中年男性の自問自答、長年別れ別れとなった兄と弟……それぞれ一癖あるキャラクターを演じさせながら、あらゆる角度でヴィクラムの演技力の幅を見せつけ、ヴィクラムの最大の見せ場を築き、ヴィクラムの存在感をアピールする。それなりに派手な画面効果でアクションを作り上げるレイアウトは超カッコエエの一言であるし、色彩統一された画面の中で蠢く群衆に潜むヴィクラム演じる主人公の存在感、静と動の効果的対比構図、「天才的数学の応用」の一言で説明される暗殺に用いられる仰々しい仕掛けの数々…と、明るく派手派手な他のマサーラー演出とは一線を画すグナナムトゥ監督流のスタイリッシュさは、過去2作にも負けないハッタリと情報の錯綜具合、スター俳優のスター性を逆手に取った感情表現の独特な振幅演出が美し&超パワフル。
そのヴィクラムの活躍を中心に組まれた映画構造の中にあって、前半はそれ以外の登場人物たちの視点が錯綜する群衆劇的な複雑な伏線を描いている本作。ヴィクラムの活躍のお膳立てとして活躍する若手たちの活躍も目覚ましく、タミル語映画界の元気さを見せつけられているようでもある(あるいは、次々に登場する新人俳優の回転の速さに驚くべきか)。
当初の主人公然として登場するインターポール捜査官アスラン・イィルマズを演じているのは、1984年グジャラート州ヴァドーダラー県ヴァドーダラー(現地発音に揺れがあるため、日本語表記としてはバローダー、ワドダラなどとも書かれる)生まれのクリケット選手イルファン(・カーン)・パターン。
父親はヴァドーダラーのモスクに勤めるムアッジン(1日5回の礼拝を前に、その呼びかけ役を務める人)で、やはりクリケット選手になる兄ユースフ・パターンと共にモスク内で育ったという。両親からは神学者になるよう勧められながら、兄共々クリケットに興味を示し、貧乏ながら元クリケット選手の指導を受けてヴァドーダラーのクリケット・14才以下代表選手に選抜。以降も年々好成績を残して15才以下インド代表選手に選抜もされて国際大会で活躍する。00年以降、"バローダー・クリケット・チーム"などの選手としてプロリーグを渡り歩いて活躍する他、イングランドの"ミドルセックス・カントリー・クリケット・クラブ"にも所属していたこともある。
数々の試合で好成績を叩き出す活躍を残し、2020年に選手を引退。兄弟でクリケット選手育成学校"クリケット・アカデミー・オブ・パターンズ"も設立している。
映画には、03年の短編ヒンディー語(インドの連邦公用語。主に北インド圏の言語。フィジーの公用語の1つでもある)映画「Jab Chaye Mera Jadoo」に出演している他、04年の「ボクと結婚して!(Mujhse Shaadi Karogi)」に本人役でカメオ出演していて、本作で本格的に男優デビューする事となった。
前半のみなら、このアスランを副主人公にして立てている雰囲気濃厚の映画にあって、彼と共に事件の真相へ迫るヒロインが3人登場し、それぞれの見せ場が用意されている感じ。
主に前半に活躍する天才少女ジュディス・サムソン役を演じるのは、タミル人女優ミーナクシー・ゴーヴィンダラージャン。ヴィジュアル・コミュニケーションの学位を取得後、17年のTVシリーズ「Saravanan Meenatchi Season 3」で女優デビュー。19年のタミル語映画「Kennedy Club」で"ミーナクシー"役で映画&主演デビューし、タミル語映画界で活躍中。
そのジュディスの先生にして主人公マディの恋人役となる第2ヒロイン バーバナ・メーノーンを演じるのは、1992年カルナータカ州ダクシナ・カンナダ県キンニゴリ(または同県のマンガルール生まれとも)のバント系(別名オッケルメ。カルナータカ州南西沿岸部の南カナラ地方~ケーララ州カサラゴド県にまたがるトゥルナードゥ地域に広がる、トゥル語とクンダガンナダ語を母語とする大規模な地主階級の子孫たち。独自の母系社会、宗派、暦を持つ。バントとは、トゥル語で「戦士」の意。オッケルメが「耕作者」の意だそう)マンガロリアン(バント・コミュニティにおける、マンガルールの先住民たち。別名クドラダクル、マンガローリナヴァルー、コディアルカールなど)家庭に生まれたスリニディ(・ラメーシュ)・シェッティ。
電子工学の学位を取得後ソフトウェア・エンジニアとして働き出すも、すぐにモデルクイーンになると言う夢を叶えるためにモデルコンテストに出場。2015年度ミス・南インド選考会にて"ミス・カルナータカ"と"ミス・ビューティフルスマイル"を獲得。さらにその後も数々のモデル賞を獲得。18年のカンナダ語(南インド カルナータカ州の公用語)映画「K.G.F: Chapter 1」で映画デビューして、SIIMA(国際南インド映画賞)カンナダ語映画新人女優賞ノミネートとフィルムフェア新人女優賞ノミネートする。22年の続編「K.G.F: Chapter 2」を挟んで、同年公開の本作でタミル語映画デビューとなった。
主人公マディの過去に関わる第3のヒロイン ジェニファー・ロサリオ役には、1995年ポンディシェリ連邦直轄領ポンディシェリ(タミル・ナードゥ州とその周辺に点在する元フランス領インドだったポンディシェリ連邦直轄領の首府。06年に直轄領名称はタミル語発音のプドゥッチェーリに変更されたものの、市名は従来通りフランス語発音のポンディシェリのまま残されている)生まれの女優ミルナリニー・ラヴィ。電子通信の学士号を取得後、IBMのソフトウェア開発業に従事するも、女優を目指して退社。ネット動画制作を通してティアガラジャン・クマララージャ監督に声をかけられ、彼の監督作となる19年のタミル語映画「Super Deluxe(スーパー・デラックス)」で映画デビュー。同年に、タミル語映画「Champion」と共に「Gaddalakonda Ganesh」に主役級で出演してテルグ語(南インド アーンドラ・プラデーシュ州とテランガーナー州の公用語)映画デビューもしている。前者でSIIMA国際南インド映画賞のタミル語映画新人女優賞ノミネートを、後者で同じ映画賞のテルグ語映画新人女優賞ノミネートに選ばれている。
映画前半に重要要素となる、複数の登場人物たちの思惑、複雑な数式を用いた暗殺術などのハッタリ具合はグナナムトゥ監督の過去作以上に暴走気味でインパクト大。そこから、主人公マディの背景と本音が現れていく中盤以降は、マディと"暗殺者コブラ"の2者にのみ注目が集まり、前半の群集劇要素、数学要素はどんどん影を薄めて、マディの過去の経緯とその内面世界、現実と妄想が交差する彼の見ている主観世界の危うさが中心命題になっていく。
「数学で全ては説明される」と語っていた前半に対応して、後半バトルでもそういった数学的ロジックが欲しかった気もするけど、いつもの2本立てマサーラー方式と思った方がいいのかな…と納得したくなるほどにはボリューミー。映画ごとに毎度変幻自在な役作りを見せるヴィクラムが、何者にも変装できる正体不明の男を演じるってだけで、もう期待度跳ね上がり&その期待に応えるように多種多様なヴィクラムの姿が拝める映画でもありますわ。映画の多様性ってこういうことヨネ!(んなわけない)
サスペンス劇としては「まばたかない瞳」の方がドキドキドンデン返しが決まっていたものの、主人公の境遇、過去の悲劇、その生涯を賭けた生き様の苦悩とそれゆえの天才性・ヒーロー性の生み出し方は、何段階も進化していっている。この暴走気味でありながら、なんともワクワクさせられてしまうグナナムトゥ監督作のさらなる到達点が今後どうなっていくのか、本作の先にどんな映画へと化けていくのかが楽しみになっていく1本ですわ。
Cobra - 1983 - demo tape (hardcore punk era)
(。・ω・)ノ゙ Cobra を一言で斬る!
「マティの学生時代のエピソードで、飲食店でのバイトのシーンがあったけど、インドの都会ってチップ文化なのくわ!!(場所・店によって異なるみたいだけど)」
ギャグマンガ日和, うえだ ゆうじ(上田 祐司), 343797
〜〜<やの話などがあり>
次に、だ。ぼくは(略)…少なくとも漫画に於ける「記号」の意味をいしかわ氏のように解してはいない。
漫画は、古いものであれ新しいものであれ、本質的に「記号」の集積なのだ。
そう思っている。
ばけもの夜話づくし 1 (MFコミックス ジーンシリーズ) マツリ/著 ..
少年サンデーでは、『男組』連載終了の後、『男大空』というマンガが、やはり雁屋・池上コンビで連載されていた。『男組』の後を受けてというのはどうにも分が悪く、キャラクターにせよストーリー展開にせよ、パワーダウンの感はどうしても否めなかった。ただその一方で、『男組』の焼き直しをするのではなく、なんとか別のものを描きたいという作者側の意思は、伝わってきた気がしている。